大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和56年(う)1896号 判決 1982年8月05日

被告人 三田義樹 ほか四人

主文

原判決中、被告人三田義樹、同出淵裕明に関する部分を破棄する。

被告人三田義樹を懲役八月に、同出淵裕明を懲役六月に、各処する。

但し、本裁判確定の日から、被告人三田義樹に対しては五年間、被告人出淵裕明に対しては三年間右各刑の執行を猶予する。

被告人中村和彦、同富永茂、同武部年男の本件各控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人藤沢抱一、同山下俊之、同鼎博之が連名で提出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官山中朗弘が提出した答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

第一控訴趣意第三章 審判の公開に関する規定違反を主張する点について

所論は、要するに、原裁判所は、第一回公判期日より判決言渡期日に至るまで、次のような傍聴制限、すなわち、(1) 開廷中、どのような理由があろうと退廷した場合、再入廷を認めない、(2) 開廷中、傍聴席に空席が生じても、一度傍聴券の配布がすべて終つている場合には、傍聴希望者がいても入廷は認めない、(3) 開廷中、法廷外の廊下に傍聴希望者がいることを認めない、という内容の傍聴制限を行つたが、右の如き傍聴制限は、憲法三七条、八二条に違反するものであるとともに、裁判所傍聴規則の解釈を誤つた違法な訴訟指揮であるから、原審における審理は、審判の公開に関する規定に違反したものである、というのである。

そこで、調査する。原審記録によれば、原審裁判長は、傍聴に関し、所論主張の前記(1)及び(2)の如き措置をとつたことがうかがわれるほか、右措置に対して、原審弁護人から、原審第一六、一七回各公判期日を除く第二回公判期日以降第二五回判決言渡期日までの毎回にわたり、異議の申立乃至抗議的な発言が繰り返されたこと、及び、原審第一回公判期日において、勝手に発言した傍聴人一名に対して退廷命令が発せられたのをはじめ、第四、六、八、一一乃至一三、一五、一九、二二回の各公判期日において、いずれも法廷の秩序を乱した傍聴人に対して退廷命令が発せられたことのほか、退廷命令が発せられない公判期日においても、勝手に発言するなどして秩序を乱した傍聴人に対し、原審裁判長の制止と警告がなされていること、以上の事実が認められるが、所論が前記(3)として主張する事実、すなわち、開廷中、法廷外廊下に傍聴希望者がいることを認めないという点は、原審記録によつてもこれを認めることができない。

右事実によれば、原審裁判長は、第一回公判期日を開くにあたり、法廷の秩序を維持する必要があるとして、傍聴席に相応する数の傍聴券を発行し、その所持者に限り傍聴を許すこととしたほか、いわゆる傍聴人の入替制限などの措置をとつたが、同公判期日の法廷の状況にかんがみ、以後の公判期日においても右同様の措置が必要であるとして、右と同じ措置を継続したものと思われるところ、原審裁判長の傍聴に関する前期措置が、裁判の公開を規定した憲法八二条に違反するものでないことはもとより、各公判期日における傍聴人の行状にかんがみれば、原審裁判長に与えられた法廷警察権の行使の観点からみても、合理的な裁量の範囲内であつて、適法かつ相当な措置というべきである。

所論は、本件の場合、裁判所傍聴規則に定める要件に該当しないのに拘らず、原審裁判長が前記の傍聴制限をしたのは、右規則の解釈を誤つたものであると主張する。しかしながら、裁判所傍聴規則一条は、裁判長は法廷における秩序を維持するため必要があると認めたときは、傍聴席に相応する数の傍聴券を発行し、その所持者に限り傍聴を許すことなど、同条各号の措置をとることができる旨を定めたものであるが、これは、裁判所法七一条により法廷警察権を付与された裁判長が、法廷における秩序を維持するために必要ありと認めた場合、傍聴に関し、法廷警察権の行使としてとることのできる予防的な措置を具体的に定めたものにほかならないから、裁判長が、傍聴に関して、法廷警察権の行使としてとり得る措置は、右規則一条各号に定めるものに限られると解すべきいわれはない。したがつて、所論のいう傍聴人の入替(傍聴券を所持した傍聴人が、開廷中、任意に退廷して、法廷外の廊下等で待機している傍聴希望者と交替することを指すものと思われる。)を制限することや、開廷中、任意に退廷した傍聴人の再入廷を認めないこと、あるいは、開廷中、傍聴人の退廷によつて傍聴席に空席が生じても、新たに傍聴券を発行しないこと、などの措置が、裁判所傍聴規則一条各号のいずれにも該当しないとしても、裁判長は、法廷における秩序を維持するために必要があると認めたときは、裁判所法七一条二項に定める「その他法廷における秩序を維持するのに必要な……処置」として、右の如き措置をとることができるのであるから、原審裁判長が、傍聴についてとつた前記の措置は、適法なものというべく、裁判所傍聴規則の解釈を誤つたものということはできない。その他、原審記録を精査しても、傍聴に関し、原審裁判長がとつた措置には、なんらの違法不当はないから、所論は採用できない。

論旨は理由がない。

第二控訴趣意第四章 訴訟手続の法令違反を主張する点について

所論は、要するに、原審において、弁護人は、他事件で取り調べを受けた本件被告人以外の者の検察官に対する供述調書を、供述の存在自体のみを立証するためという立証趣旨で、刑訴法三二三条三号により証拠調請求をしたのに対し、原裁判所がこれを却下したのは、訴訟手続の法令に違反したものである、というのである。

そこで、調査するに、原審記録によれば、原裁判所は、原審第二四回公判期日において、原審弁護人から、橋本秀昭(昭和五一年一二月一三日付)、斉藤滋寿(同年同月同日付)及び宮城賢秀(同年同月一五日付)の検察官に対する各供述調書を、刑訴法三二三条三号該当書面であるとして、証拠調の請求がなされたので、直ちに、検察官の意見(右各書面は刑訴法三二三条三号に該当しないうえ、本件に関連性も必要性もないとの意見)を聴いたうえ、右請求を却下したことが認められる。

ところで、橋本秀昭等三名の検察官に対する各供述調書が、他の事件で作成されたものであることは、所論も自認するものであるところ、他事件のために被告人以外の者が当成した供述書またはその者の供述を録取した書面は、刑訴法三二三条三号にいう書面にあたらないと解すべきであるから、原裁判所が、弁護人の前記証拠調請求を却下したのは、訴訟手続の法令に違反するものではないといわなければならない。

論旨は理由がない。

第三控訴趣意第二章第一 事実誤認を主張する点について

所論は、要するに、原判決が、(認定事実)の第一本件犯行に至る経緯の中で、(1) 日本臨時労働組合は労働組合であり、労働者の自主的組織として自然発生的に形成されたとの前提をとるかの如く認定した点、(2) 新聞輸送株式会社(以下新聞輸送または会社という。)は、日臨労とは無関係の第三者的立場であつたかの如く認定した点、(3) 本件事件の前日である昭和五四年二月二八日、日臨労の者等が、同人等を誹謗する内容のビラを配布した全臨労幹部に抗議するためという目的で芝浦営業所にきたと認定した点は、いずれも事実を誤認したものであり、右誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのであつて、その理由を以下のように主張する。

1  全臨労は、新聞輸送で働く被告人等を含む臨時労働者によつて結成された労働組合であるが、被告人等は、「臨時」といつても、長い者で一〇年以上、短い者でも四年余りという長期にわたつて反覆継続して雇用されてきた常傭労働者であるのに、その雇傭上の地位が不安定であるうえ、労働条件も劣悪であつたので、これの改善をはかるため、全臨労を結成し、昭和四七年の春闘期に、はじめて会社に対し、賃上げ、労働時間の短縮、休暇の増加、退職金制度の新設などを要求したが、会社側に拒否されたうえ、会社側が不当労働行為を継続したため、昭和五一年まで続いたいわゆる第一次争議となり、全臨労は、これを闘い抜いてきたのである。このような全臨労に対して、日臨労は、昭和五一年八月、会社に導入された者等が、全臨労潰しの意図をもつた会社の肝入りで結成したものであるから、日臨労が、労働組合と呼べるはずがないのに、原判決が、日臨労を労働者の自主的組織である労働組合と同視した点は、重大な事実誤認である。

2  日臨労は、前記の如く昭和五一年一〇月に結成されるや、同月二〇日には、平河町職場に出勤した全臨労組合員に対し、外部の右翼を含む総勢三〇名余で殴りかかり、全臨労組合員七名に対して一〇日間から二週間の傷害を負わせたのであるが、この事件(一〇・二〇事件という。)は、会社による全臨労排除という露骨な弾圧行為の一環として発生した事件であるから、原判決がいうように、組合間の「紛争」と称されるものではない。一〇・二〇事件以後、日臨労は、平河町職場や本社三階控室を占拠し、全臨労組合員が、これらの場所に寄りつけない状態を作り出したうえ、全臨労組合員に対して、数々の脅迫乃至いやがらせ行為を継続し、会社も日臨労の右のような全臨労排除策動に呼応して、徐々に全臨労の排除策に出たのである。すなわち、会社は、就労の安全をはかるという口実をもつて、平河町職場は日臨労、芝浦職場は全臨労という分離就労策を講じて、平河町職場から全臨労を排除したのであるが、その後においても、会社は、全臨労組合員の就労の安全を保障する体制を作らず、本件に至るまで、全臨労組合員の就労の安全を脅かしてきたのである。したがつて、原判決が、全臨労と日臨労の対立であるとの基本認識に立つたうえで、会社の第三者的立場を肯認したのは、重大な事実誤認であるといわざるを得ない。

3  昭和五四年二月二八日の前々日にあたる同月二六日、日臨労委員長高橋一己、同書記長木村博昭等七、八名の日臨労の者は、全臨労組合員の出勤前に、芝浦職場に侵入し、全臨労組合員に対する襲撃を暗示する「二・二六逆攻」などというステツカーを貼りめぐらしていつたが、会社側は、右ステツカーのほとんどをはがしたものの、全臨労に対しては、右事実の隠蔽をはかろうとした。次いで、翌二七日、全臨労輸送分会の分会長である被告人富永あてに、かつて会社の正社員であつた斉藤滋寿から電話で、「これから行くから、首を洗つて待つていろ。」と襲撃を予告してきた。そして、同月二八日夜、かつて会社の正社員であつた橋本秀昭を筆頭に、会社と雇傭関係のない右翼の者等一三名が、芝浦職場にきて、当夜出勤する全臨労組合員を襲うべく待機していたのであつて、右橋本等は、全臨労が日臨労の者等を誹謗した内容のビラを配布したことについて全臨労幹部に抗議するという目的できたのではない。この事件は、会社のいう安全就労義務の履行が虚構であつたことを暴露したものである。この点においても原判決は事実を誤認したものである。

以上のように主張する。

そこで、調査するに、原判決挙示の関係各証拠によれば、原判決が、(認定事実)の第一本件犯行に至る経緯と題して認定判示するところは、すべて相当として是認することができる。

所論にかんがみ、若干の説明を補足する。

(証拠略)を総合すると、

(一)  新聞輸送株式会社の労働組合としては、(1)正社員で組織する運輸労連東京都連新聞輸送労働組合、(2)臨時労働者で組織する全臨時労働者組合(これには、二つの組合があり、会社では各委員長の名前を冠して、一つを小泉全臨労、他を大森全臨労と呼び、被告人等は、大森全臨労に所属する。)、(3)臨時労働者で組織する日本臨時労働者組合、(4)運転手の労働組合、の四組合があり、会社は、右四組合を、いずれも労働組合として認めて対応していたこと。

(二)  日臨労は、第一次争議といわれた全臨労による労働争議が終結したのちの昭和五一年夏ころ、会社に採用された者等によつて結成された労働組合であつて、全臨労の活動方針や態度に反対する立場をとるものであることがうかがわれるも、会社の肝入りで結成されたものではないこと。

(三)  日臨労に所属する者等が、昭和五一年一〇月二〇日、平河町営業所に出勤してきた全臨労組合員を襲撃して、数名の者を負傷させるという暴力事件を起こしたのに対し、被告人等の所属する全臨労系の者約五〇名は、同年一一月二七日、旗竿をもつたヘルメツト姿で、本社三階の控室を襲い、同室で寝ていた日臨労組合員二名と下請会社の労働者三名を叩き出すという実力行動に出たほか、各職場やその他の場所で、互いに相手組合や組合員を中傷誹謗する内容のビラをまくなど、その対立関係を深めに至つたばかりか、全臨労は会社に対し、就労の安全保障を要求して闘争に入り、これが実現されるまで就労を拒否する者も出たこと。

(四)  右のような事態に対し、会社は、日臨労、全臨労の双方に対し、しばしば警告を発したり、就労を拒否している者には、就労の要請を出すなどしたが、昭和五二年二月二八日、日臨労は平河町営業所に、全臨労は芝浦営業所に、それぞれ分離して就労させることとしたうえ、日臨労に対しては、芝浦営業所への立入りを禁止したほか、職場における現場監督を増員したりしたが、その後も、日臨労と全臨労の対立は続けられたこと。

(五)  全臨労は、昭和五四年二月二六日から二八日にかけて、会社の本社前にピケを張つた際、日臨労を誹謗したチラシをまいたため、これを知つた日臨労の高橋、木村など数名の者が、同月二六日午後八時過ころ、芝浦営業所に立ち入つて、「逆攻」などと書いたステツカーを貼り歩き、約三〇分で引き揚げたが、会社側は、労務担当取締役遠藤勲司の指示により、会社側の手で、直ちに右ステツカーを撤去したこと、また、翌二七日には、日臨労の者から、芝浦職場に対し、電話で、「全臨労の者がいるか。」といつてきたりしたが、二八日午後八時過ぎころには、日臨労の橋本等が、被告人三田、同出淵、同富永、同中村の四名に会いたいといつて芝浦営業所にやつてきたので、その報告を受けた前記遠藤は、芝浦営業所に電話して、右橋本を電話口に呼び出し、理由を尋ねたところ、同人から、全臨労が「書泉」でまいたビラについて聞きたいことがあるのできた旨の返事を得たので、同人に対し、直ちに帰るように伝えたが、同人が、「四人に会つたら帰る」というのみで、直ちに帰るといわなかつたため、さらに、同人に対して、構内から退去するよう通告するとともに、もし、橋本等が被告人三田等と会う事態になれば、暴力事件に発展しかねないと危惧したため、芝浦営業所の現場監督に対し、直ちに、もよりの駅に出向いて、当夜出勤してくる全臨労組合員に、賃金保障を条件に引き返えさせる措置をとるよう指示したうえ、遠藤自身も芝浦営業所に急行したところ、既に橋本等が引き揚げたあとであつたので、現場監督から、右指示どおりの措置を講じた旨の報告を受けたうえ、仕事上の指示をしたりして帰宅したこと。

以上の事実を認めることができる。

右事実によれば、日臨労は、会社の肝入りで結成されたものでないこと、日臨労が結成されるや、同労組と全臨労対立抗争が激しくなり、会社としても、職場規律の維持及び業務の円滑な遂行という観点から、両組合に対して、しばしば警告を発したり、両組合員を分離して就労させるなどの措置をとつたこと、会社側が、会社に対しては闘争的でない日臨労の方に好感を寄せていたものと思われないではないが、会社が日臨労を利用して全臨労潰しをはかつたとまでは認められないこと、また、本件直前の昭和五四年二月二六日から同月二八日までにおける日臨労の者等による全臨労に対する行動は、全臨労が、ビラ、チラシなどの文書で日臨労を誹謗したことが直接的な契機となつたものであること、などが明らかであるから、これ等の事実を踏まえた原判決の認定には、所論のいうような事実誤認はないというべきである。

論旨は理由がない。

第四控訴趣意第二章第二 公訴権濫用に関する事実誤認の主張について

所論は、要するに、原判決は、被告人等の行為の動機、態様、結果等からみて、本件公訴の提起が、客観的な起訴基準を逸脱しているものとは認められず、その他本件の公訴手続を違法とすべき事由をうかがわせる証跡は存しないから、公訴権濫用の主張は採用できない、と判示するが、本件起訴は、第一に、一般の起訴猶予の基準を著しく逸脱して提起されたものであり、第二に、検察官が全臨労の労働運動の弾圧を企図し、人権を蹂躙する意図のもとに提起したものであつて、刑訴法二四八条の裁量権の限界を越えたものであり、憲法一四条、二八条等憲法の基本的人権尊重の精神にも反し、刑訴法一条の趣旨にも反することになるから、訴訟法上無効と解すべきである、というのであつて、その具体的な論拠として以下のように主張する。

1  会社側は、全臨労に対し、第一次争議の際の機動隊、ガードマンによる弾圧、その後における暴力団まがいの社外人による弾圧、さらには、日臨労による襲撃等、数々の全臨労排除攻撃を重ねてきたのに、これらに対する処分は、一貫して、全臨労には厳しく、会社側には寛大という不平等な取り扱いがなされてきた。例を挙げれば、昭和五一年一〇月二〇日、日臨労が、平河町職場で、全臨労組合員を襲つて負傷させた事件は、その動機、態様、結果からみて、極めて悪質であるのに、検察官は、強制捜査もしないで、加害者のうちの松島成佳及び橋本秀昭の二名のみを略式起訴し、五万円の罰金を求刑しただけであるのに、他方、昭和五一年一一月二七日、全臨労の一部の組合員が本社三階の従業員控室を占拠していた右翼に対して退去を求める行動に出たところ、警察は、これを全臨労と日臨労の抗争であると直感し、多数の警察官を現場に急行させて、本社前で抗議集会を開いていた全臨労組合員及び支援労働者合計四八名を逮捕し、うち三名を建造物侵入罪で起訴したほか、昭和五二年一二月二七日、執行官が、全臨労組合員を債権者、会社を債務者とする賃金支払仮処分命令を執行すべく本社二階事務所前に行きドアを開けようとしたが、会社側がドアを開けようとしなかつたため、債権者数名が、建物の鉄骨を登り、鍵のかかつていないガラス窓を開けて室内に入つたところ、警察は、室内に入った者一名を建造物侵入の現行犯として逮捕し、勾留も認められたが、右勾留は、準抗告審で取り消された、というように、警察、検察は、全臨労組合員のささいな行為についてまで、極めて厳しい措置をとつているのに対し、会社、日臨労の行為については、極めて寛大な措置をとつているのである。

2  本件起訴は、行為の動機、態様、結果のいずれの点からみても、客観的な起訴基準を逸脱し、かつ、全臨労の組合活動を阻害する目的でなされたものである。すなわち、本件については、事件直後に、井戸和弘、小林貞一が医者の診断書をとり、かつ、五、六名の目撃者(会社の職制)に対する事情聴取も終つていたほか、昭和五四年三月半ばころに、会社側からの告訴、告発を受けていたのであるから、捜査当局としては、本件が真に犯罪であり、被害者とされた者等が処罰を求めていたとするならば、遅くとも事件発生後一、二か月前後に傷害罪で立件できた筈であるのに、被告人等の逮捕は、事件発生の約四か月後の昭和五四年七月一六日以降になされているのである。ところで、被告人出淵を除く被告人四名が逮捕された七月一六日は、さきに述べた昭和五二年一一月二七日の建造物侵入事件の判決が宣告される日であつて、被告人四名は、右判決を聞くため裁判所に行つたところ、法廷内で逮捕されたものであり、また、翌日の七月一七日というのは、前記賃金支払仮処分に対する異議訴訟の判決が言い渡されることになつていたため、敗訴を予想した会社は、先制的に前日の七月一六日、被告人等を逮捕するという警察の暴挙を引き出すことに成功したほか、さらに、会社は、被告人出淵を除く被告人四名が昭和五四年七月二七日起訴され、また、被告人出淵が同月二八日に逮捕されるや、従前の労働慣行を破つて、同年八月一日、被告人五名を懲戒解雇処分に付したのである。これら一連の事実は、会社及びこれと一体となつた警察、検察の全臨労弾圧意図を物語るものである。本件起訴は、到底公正な公訴権の発動とはいえないから、棄却されるべきものである。

以上のように主張する。

そこで、調査するに、原審記録によれば、捜査当局が、所論主張の各事件について、ことさらに不平等な取り扱いをしたこと、あるいは、全臨労組合員の関与した事件について、全臨労の正当な組合活動を弾圧する意図で対処したこと、などをうかがわせるに足る証跡は見出せないし、また、本件について、被告人等の逮捕に至るまでの時間的な経過が、所論指摘のとおりであるとしても、全臨労弾圧の目的で本件公訴提起に及んだものでないことも明らかであるうえ、後に事実誤認の主張に対する判断で説示するような本件犯行の罪質、態様、結果等の犯情にかんがみれば、検察官がその裁量権を著しく逸脱して本件公訴を提起したものとは、到底いうことができないほか、他に本件公訴提起を無効ならしめる事由も皆無であるから、所論は採用できない。

論旨は理由がない。

第五控訴趣意第二章第三の一、第四 事実誤認、法令適用の誤りを主張する点について

一  原判示第二の一の事実(井戸和弘に対する傷害)につき、構成要件該当行為の不存在を主張する点について

所論は、要するに、原判決は、(認定事実)第二罪となる事実の一として、「被告人三田義樹、同中村和彦、同富永茂及び同武部年男は、共謀のうえ、昭和五四年三月一日午後五時一五分ころ……東京交通会館二階廊下において、前記井戸和弘(当時五〇歳)に対し、『昨日電話で何と言つた。』『出てこいと言つたろう』などと怒号しながら、こもごも同人の作業衣の襟元、胸倉、ネクタイ等をつかんで前後にゆさぶり、右腕を頸部に巻きつけて締めるなどの暴行を加え、よつて、同人に全治まで二〇日間を要する前胸部打撲及び挫創の傷害を負わせ」たと認定判示したが、被告人三田、同中村、同富永及び同武部は、共謀して右の傷害を負わすような暴行に及んでいないのであるから、右認定は事実を誤認し、ひいては法令適用を誤つたものであり、これは判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのであつて、その理由を以下のように主張する。

1  被告人三田、同中村、同富永、同武部がこもごも暴行を加えたと認定したことの誤りについて

(1) 原判決は、本件暴行に及んだ動機について、「被告人三田の電話の際における井戸の、くるならこいという応待ぶりに対してなされた報復的行動である」と認定したが、このような単純な挑発的行為が動機になるものとは考えられない。右にいう電話は、被告人三田と井戸との間でなされたものであつて、そのかたわらには、被告人武部がいただけで、被告人中村、同富永は、このことを全く知らなかつたのであるから、被告人中村、同富永が本件当時、井戸に会つたときも、右電話のことをいわなかつたし、被告人富永は、井戸に対してなんらの発言も、行動もしていないのである。したがつて、被告人中村、同富永については、原判決でいうような動機は存在しない。

(2) 井戸は、本件当時五〇歳で、身長一メートル七五センチメートルの中肉のやせ型で腕力も強そうに見えない者であつたのに対し、被告人等は、いずれも二〇歳代の若者で腕力もあつたのであるから、被告人四名全員で、井戸に攻撃を加える必要はなかつた。当時の状況としては、被告人四名が、井戸に暴行を加え、傷害を負わせて決定的なダメージを与えなければならない関係も必要性もなかつたのである。また、本件当時、現場には、会社側の者として、三井、住吉、小林、井戸、諸永、山崎、繁在家の七名があり、人数的には、被告人等より多かつたのであるから、もし、被告人三田等四名が井戸に暴行を加えていたというのであれば、会社側の人間、特に諸永、山崎、繁在家が、止めに入るのが当然であるのに、これをしなかつたのは、単に被告人武部と井戸とのやりとりがあつただけで、他の被告人等は、そのまわりで見ていたに過ぎなかつたため、助けに入る必要がなかつたことを示すものである。

(3) 以上のことからも明らかなとおり、被告人三田等四名から、こもごも暴行を受けて傷害を負わされたという証人井戸和弘及びこれを目撃したという証人三井久男の各証言は、信用性がなく、これを否定する被告人等の各供述の方が信用できるというべきである。

2  全治まで二〇日間を要する前胸部打撲及び挫創の傷害を認定したことの誤りについて

(1) 井戸の傷は、小渋医師のカルテを前提としても、挫創ではなく、擦過傷であるうえ、右カルテの記載内容はいいかげんなものであるから、証人小渋の証言もまた信用性がないといわなければならない。また、被告人武部の供述を前提とすれば、小渋証人のいうような傷害結果が発生すること自体おかしいというべきである。

(2) 証人小渋の証言によると、井戸の傷の状況からみて、数日間は毎日通院して薬をぬり替え、消毒した方が早く癒ると思つたので、その旨を同人に指示したが、同人は、三月一日のあと、同月二日、八日、一二日、一七日、二〇日に、それぞれ来院治療し、二〇日に終了した、というものであるところ、井戸は、毎日でも通院できる立場にあつたのに、右のように、医師の指示に従わなかつたため、治癒が遅れたのであるから、被告人等が右治癒の遅延の責任までを負わなければならないいわれはないのである。したがつて、全治まで二〇日間を要する傷害とは認定できないのであるから、これを認定した原判決は事実を誤認したものである。

3  共謀の事実を認定したことの誤りについて

(1) 被告人三田、同中村、同富永の三名は、被告人武部と井戸とのやりとりを現認していたに過ぎないが、そのことをもつて暴行の共謀があつたということはできない。すなわち、被告人三田は、被告人武部と井戸のやりとりを暴行とは見ておらず、抗議をしていると思つていたのであり、被告人富永は、被告人武部が井戸に対して問いただしているというように感じ、止めに入るほどの状態ではなかつたという認識であり、被告人中村は、井戸の左すそをつかんではいたが、その段階で離れ、以後井戸に接触していないのである。被告人武部は、井戸と対峙して、互いに襟元をつかみ合い、そのままの状態で移動していつたのであるから、他の被告人三名としては、暴行が行われているとの認識はなかつたのである。

(2) 被告人武部と井戸とのやりとりは時間にして二分乃至三分程の短かいものであつた。両名が、互いに襟元をつかまえて、文句のいい合いをしている状況のもとで、しかも、ほんの二、三分の間に起つている事実を即座に読みとり、加勢行為に出るか否かを判断することは困難である。何が起つているのか、関係ないやと思つているうちに終つてしまつたというのが実際であり、加勢もしなければ止めもしないというのが現実であつたと思われる。このような状況下では、暴行の共謀が成立したとまではいうことができない。したがつて、暴行の共謀が成立したと認定した原判決は事実を誤認したものである。

以上のように主張する。

そこで、調査するに、原判決挙示の関係各証拠によれば、原判決が、(認定事実)の第二罪となる事実一として認定判示するところは、相当として是認することができる。

所論にかんがみ若干説明を補足する。

本件犯行を検討するには、犯行に至るまでの経緯についてみる必要があるところ、原判決が挙示する関係各証拠によれば、以下の事実を認めることができる。

(一) さきに述べたとおり、新聞輸送株式会社では、職場の規律と就労の安全をはかるため、全臨労組合員を芝浦営業所に、日臨労組合員を平河町営業所に、それぞれ分離して就労させる措置を講じたほか、日臨労に対しては、芝浦営業所への立入りを禁止したりしたが、その後においても、両組合は対立を続け、全臨労は会社に対し、日臨労所属の一一名を解雇するよう強く要求していたのに対し、日臨労は、全臨労幹部である被告人三田、同出淵、同中村、同富永の解雇を会社に要求するという状況にあつた。

(二) そして、昭和五四年二月二六日には、全臨労が会社本社前でピケを張つた際、日臨労を誹謗する内容のビラを配布したため、これに怒つた日臨労側が、同日夜、「逆攻」などと書いたステツカーを芝浦営業所内に貼りめぐらしたので、会社側は、急いで右ステツカーを撤去した。しかし、同月二八日午後一〇時ころ、日臨労に所属する橋本秀昭等約一〇名が再び芝浦営業所にやつてきたので、同営業所の現場監督は、直ちに右事実を上司に報告し、これを自宅で受けた労務担当取締役遠藤勲司は、直ちに、芝浦営業所に電話して、右橋本を電話口に呼び出したうえ、その来意を尋ねたところ、同人が、「神田の書泉でまいたビラについて聞きたいことがあるんだ。」といつたので、同人に対し、直ぐに営業所構内から立退くように求めたところ、同人からは、「四人に会つたら帰る。」という返事があつたのみであつた。遠藤としては、橋本のいう四人とは、日臨労が解雇要求を出している被告人三田、同出淵、同中村、同富永の四人であると察知し、橋本等が退去しないので、出勤してくる全臨労組合員等と顔を合わせることになれば、従前の経緯にかんがみ、暴力事件等の不祥事になりかねないと判断し、直ちに電話で、右営業所の現場監督に対し、通勤駅である国鉄田町駅に出向き、出勤してくる全臨労組合員等に、賃金の補償をするから当夜の出勤を見合わせるようにと伝えて、帰つてもらうことを指示し、これを受けた現場監督は、右指示どおりの措置を講じた。

(三) そのころ、被告人三田は、千代田区神田神保町の全臨労の組合事務所にいたが、組合員の加藤某から、田町駅で前記のような指示をされた旨の連絡を受け、直ちに組合員等の招集をはかるとともに、同日午後一一時四〇分ころ、芝浦営業所に電話して、応待に出た同営業所の現場監督山田健造に説明を求めたが、明確な返答を得られず、代つて応待に出た会社の業務部次長井戸和弘も言葉を濁したため、同人に対し、「出るぞ、出るぞ」といつているうち、いささか感情的となつた右井戸が、「それじやあ、出たきやあ出なさいよ。」といつて電話を切つた。

(四) そこで、全臨労側は、翌三月一日午前一時から、被告人三田、同富永、同武部を含む組合員約一〇名が、前記事務所で話し合つた結果、芝浦営業所への橋本等の参集とこれに伴う会社側の前記措置が、かねて全臨労の要求してきた就労の安全確保に反する事態であるととらえ、至急芝浦営業所に赴いて事情調査をするとともに、会社側に対しては、会社側のとつた前記措置の事情説明を求めることなどを取り決め、同日午前五時ころ、被告人三田が、労務担当取締役遠藤勲司の自宅に電話して、同人に対し、前夜の事態について事情説明をするよう申し入れたところ、同人から、実情を調査したうえ、同日午後にも事情説明を行う旨の回答を受け、その後、双方の連絡調整の結果、右事情説明のための話し合いは、同日午後三時から午後五時まで、本社近くの千代田区有楽町二丁目一〇番一号所在東京交通会館の三階にある喫茶店「しろばら」において行われることとなつた。

(五) そこで、遠藤は、前記約束の時刻である同日午後三時ころ、労務担当取締役補佐住吉晃及び労務部次長三井久男の両名を伴つて、前記「しろばら」に出向いたが、被告人五名の到着が遅れたため、被告人等との話し合いは、同日午後三時一五分ころから、会社を代表する遠藤が、全臨労側の被告人等から質問を受ける形で始められた。席上、遠藤は、前夜、橋本等が芝浦営業所に参集した状況、これに対して会社がとつた措置の内容、その理由等について、縷々説明をしたが、被告人等は、会社側が橋本等を呼び寄せたものであると主張して、右説明を受け容れようとせず、「なぜ就労させなかつたのか。」、「謝れ。」などと同じことをいつまでも繰り返えし、あるいは、遠藤の言葉尻をとらえて揚げ足とりに類する質問を執拗に続けたほか、その間、被告人武部が遠藤に対して、紙片を丸めて投げつけたり、あるいは、被告人出淵がコーヒーを指ではじいてはねかけるといつた嫌がらせ的行動に出るなどしたため、両者の話し合いは、全くの平行線を辿つたまま、終了予定時間の午後五時になつた。そこで、遠藤は「トイレに行く。」といつて席を立ち、トイレから戻るや、同店入口付近から店内の被告人等に対し、「もう約束の五時も過ぎた。これで終りにする。」といい置いて、一人で会社に帰つたが、「しろばら」に残してきた住吉、三井のことが心配となつて、会社事務室に居合わせた井戸和弘や総務部次長待遇小林貞一等に対し、「しろばら」に残してきた住吉及び三井を迎えに行くよう指示したので、同日午後五時一〇分ころ、右井戸が従業員の繁在家、諸永と前後して、また、これにやや遅れて右小林が従業員の山崎とともに、それぞれ前記交通会館に向かつた。

(六) 他方、住吉及び三井は、遠藤が立ち去つたあと数分して、どうにか被告人等との話を切り上げて「しろばら」を出たが、被告人等もこれを追い、住吉には被告人出淵が、三井には被告人三田、同中村、同富永及び同武部が、それぞれつきまとい、口々に、「まだ話し合いは終つていない。」、「今後とも話を続けていくのか。」などといいながら、住吉及び被告人出淵が先行する形で交通会館三階から、同二階に通ずる階段を降りていつた。

(七) 右のような形で前記階段を降りていた被告人等は、同日午後五時一五分ころ、まず、三井につきまとつていた被告人三田、同中村、同富永及び同武部が、折から遠藤の前記指示で、交通会館二階三菱銀行有楽町支店前廊下まできていた井戸の姿を見つけるや、口々に「井戸だ。井戸だ。」、「いた、いた。」などといいながら、三井や、先行していた住吉及び被告人出淵を追い越すように階段を駈け降りて、井戸を取り囲んだ。また、住吉につきまとつていた被告人出淵は、住吉と右二階廊下に降り、同人をつかんで離さないでいたところ、これを見た小林が、被告人出淵を住吉から引き離そうとして、両名の間に割つて入つて、引き離したので、小林と相対峙する形となつた。その直後に、本件各犯行が敢行されるに至つた。

以上の事実を認めることができる。

そこで進んで、井戸に対する犯行について検討する。

原審証人井戸和弘は、被害を受けた状況について、おおむね、以下のように証言する。

新聞輸送株式会社の業務部次長をしていた私は、昭和五四年三月一日午後五時五分ころ、同社事務室で仕事を終え、帰宅しようとしていたところ、前記「しろばら」から右事務室に戻つてきた労務担当取締役遠藤勲司から、「三井君と住吉君の帰りが遅いので様子を見てきてくれ。」といわれたので、同日午後五時一〇分ころ、経理部の諸永、総務部の繁在家と一緒に同社を出て右「しろばら」に向かつた。私は、一、二分で「しろばら」のある東京交通会館につき、階段を上つて二階廊下まで行つたところ、三階の方から階段を降りてきた住吉と被告人出淵に会つた。そこで、私は、住吉に、「よかつたね」と声をかけ、同人と一緒に帰ろうとして、一、二歩歩きかけたとき、二階と三階の間のフロアーあたりで、何か音がしたので、立ち止つて振り返ると、三井次長と、その後方に被告人武部及び被告人中村の姿が見えた。すると、被告人武部、同中村が、「いた。いた。」とか、大声で呼びながら、私の方に階段を駈け降りてきたので、私は、何かいやな感じがしたので、二、三歩後退したところ、被告人武部、同中村が、私の前に立ちはだかり、被告人武部が私の両襟を、被告人中村が私の襟付近を、それぞれつかみ、被告人武部が、「夕べ出ろといつたろう。」といつたので、私は、瞬間的に「いつていない。」というや、両被告人が私をつかんだまま前後に強くゆすつたので、これを振りほどこうとしたが、振りほどけないでいるうち、被告人三田、同富永もやつてきて、被告人三田が、私の右肩のあたりを、また被告人富永が、私の右胸あたりを、それぞれつかんで、口々に、「井戸、出てこいといつたろう。」といつたので、私が、「そんなことはいつていない。」と答えるや、被告人四名が一緒になつて、私を前後にゆすつたり、小突いたりしたため、私は、押されて二階廊下を移動し、なおも、右同様の暴行を受け続けた。この間、繁在家が被告人中村と同武部の間に割つて入つて、やめさせようとしたため、被告人中村が、私から一旦離れたが、また私の方に戻り、私の後方から右腕を首にまわして強く締めたほか、被告人武部が、私のネクタイとワイシヤツをつかんで、横になぎ払うような感じで引張つたりした。そして、被告人四名が、一旦私を離れたあと、被告人三田が再び私の前にきて、私のネクタイを両手でつかんで前の方に強く引張つた。そのころ交通会館の守衛がきて制止したので、被告人等はいなくなつた。私のネクタイの結び目は、容易にほどけないほど固く締まつてしまつたし、胸のあたりがヒリヒリと痛かつた。私は、同日午後五時半過ぎころ、会社に戻り、同日午後五時四五分ころ、交通会館内にある東京ニユーセンター診療所にいつて、診断治療を受け、翌日、前胸部打撲、挫創という診断書をもらつたほか、湿布薬や飲み薬をもらい、また、レントゲン検査も受け、同年三月二〇日まで、六、七回右診療所に通院して治療をしてもらい、同月二〇日に全治したといわれた。右の被害を受けた当時、私は、肌着の上にワイシヤツを着てネクタイを締め、上衣は会社の作業衣、ズボンは背広のズボンを着用していたが、ワイシヤツと肌着は証拠品として警察に届けた。なお、被害を受けた日の前夜、私は、被告人三田と電話で話をした際、同被告人が、「出るぞ。出るぞ。」というので、「それじやあ、出たきやあ出なさいよ。」といつて電話を切つたことがあるから、本件当時、被告人等から、「出ろといつたろう。」といわれたとき、私が、「いわない。」と答えたのは、嘘をいつたことになるが、これは、緊張感のあまり、おおむ返しに口から出たまでのことである。私は、被告人等を告訴したかつたが、会社が告訴に踏み切つたので自分から告訴しなかつたまでであつて、被告人等を許せない気持には変りがない。

以上のように証言する。

右の井戸証言は、目撃者である原審証人三井久男の証言とも大筋の点で符合するものであるうえ、井戸を診察治療した原審証人小渋勝彦の証言及び同証人作成の診療録並びに押収にかかるワイシヤツ、肌着各一枚の状態によつても、裏付けられたものとなつていることに加えて、前記認定の本件犯行に至るまでの経緯を併せ考慮すれば、井戸証言は、三井証言とともに、充分に信用できるものということができ、これに反する被告人等の原審における各供述は、措信できないものというべきである。

したがつて、井戸、三井の各証言を含む原判決挙示の関係各証拠によれば、被告人三田、同中村、同富永及び同武部が、共謀のうえ、昭和五四年三月一日午後五時一五分ころ、東京交通会館二階廊下において、井戸和弘(当時五〇歳)に対し、「出てこいといつたろう。」などと怒号しながら、こもごも、同人の作業衣の襟元、胸倉、ネクタイなどをつかんで、前後にゆさぶり、右腕を頸部に巻きつけて絞めるなどの暴行を加え、よつて、同人に全治まで二〇日間を要する前胸部打撲及び挫創の傷害を負わせた、旨を認定判示した原判決は、優に是認できるから、右事実を否定する所論は採用できない。

なお、所論は、被告人三田が井戸と電話で話をした際、被告人三田の傍にいたのは被告人武部のみであつて、被告人中村、同富永は、その場にいなかつたため、右電話によるやりとりを全く知らなかつたものであるから、被告人等による井戸に対する本件行為が、右電話の際、井戸から、「出るなら出ろ。」といわれたことに対する報復を動機としたものであるということはできない旨主張するが、関係各証拠によると、少くとも、被告人武部、同三田、同富永の三名は、本件犯行当時、井戸に対して、「夕べ出ろといつたろう。」などといつていること、また、被告人中村は、被告人武部とともに、本件犯行の直前、井戸の姿を見かけるや、「いた、いた。」と口々にいいながら、同人のところに駈け寄つていること、及び、前記電話のあつたときから、「しろばら」における話し合いに入るまでには十数時間もあり、この間、全臨労幹部である被告人等が、種々の調査や打ち合わせをしていたこと、などの事実が認められ、これらの事実に徴すれば、「しろばら」における話し合いに入るまでに、被告人五名が打ち合わせなどを行つた際、被告人等の間で、前記電話で、井戸から、「出るなら出ろ。」といわれたことが話題になつたであろうことは、容易に推認し得るから、被告人等のうち、被告人中村、同富永は、被告人三田と井戸の右電話のやりとりを知らなかつたから、右電話の際の井戸の言動に憤慨したことが、被告人等四名の本件行為の動機になることはないとする所論は、採用できない。

また、所論は、原判決が、井戸の受けた傷害の部位、程度として、全治まで二〇日間を要する前胸部打撲及び挫創と認定したのは、誤りであると主張するが、井戸及び小渋の各証言並びに小渋医師作成の診療録によると、井戸は、昭和五四年三月一日午後五時四五分ころ、東京ニユーセンター診療所の小渋勝彦医師の診断治療を受け、翌三月二日も治療を受けたほか、レントゲン検査も受けたうえ、前胸部打撲、挫創の診断書をもらい受け、以後、毎日通院するよう指示を受けたが、その後は、同月五日、八日、一二日、一七日、二〇日に通院して治療を受け、同二〇日治ゆした旨を告げられたことが認められる。所論は、井戸が全治まで二〇日間もかかつたのは、毎日通院するようにとの医師の指示に従わなかつたからであつて、右指示に従つておれば、より早く治ゆしていた筈であるから、治ゆが長引いた分についてまで、被告人等が刑責を負ういわれはないと主張する。たしかに、井戸は、前記のとおり、受傷後連日通院したわけではないから、医師の指示どおり、毎日通院しておれば、より早く治ゆしたことも考えられないではないが、井戸の傷害は、もともと被告人四名の前記暴行によつて負わされたものであつて、同人がことさらに治療を怠つたものでない限り、治ゆに至るまでの期間を、傷害の程度を示す全治期間と認めるのが相当であるというべきところ、井戸の前記通院状況にかんがみれば、同人が、ことさらに治療を怠つたとまでは認められないから、右所論は採用できない。

さらに、所論は、被告人四名(三田、中村、富永、武部)の共謀を否定するが、既に述べた如き本件犯行に至る経緯及び本件犯行の態様に徴すれば、本件犯行現場における被告人四名の共謀のあつたことが明らかである。所論は、前記認定事実と異なる事実を前提とするものであるから、到底採用することはできない。

二  原判示第二の一の事実(井戸和弘に対する傷害)につき、違法性阻却事由の存在を主張する点について

控訴趣意第二章第四は、原判示第二罪となるべき事実の一(井戸和弘に対する傷害)及び二(小林貞一に対する傷害)の双方について、違法性阻却事由のあることを主張し、これを認めなかつた原判決の事実誤認をいうのであるが、ここでは、原判示第二の一の事実についてのみ判断することとする。

所論は、要するに、被告人三田、同中村、同富永及び同武部の井戸に対する行為は労働組合法一条二項本文、刑法三五条により正当行為として違法性を阻却するか、あるいは、少くとも可罰的違法性を欠くものであるのに、原判決が、「しろばら」における話し合いを団体交渉ではなく、単なる事情説明であるとして、被告人四名の本件行為が団体交渉中になされたものであるとする弁護人等の主張を排斥し、また、被告人等の本件行為が団体交渉とは無関係なものであるとまでは断定できず、労働組合法一条二項の適用を受けることもあり得る行為と解する余地もないではないとしながらも、被告人等の本件行為が、その目的、手段、態様、結果等からみて、労組法一条二項本文にいう正当性を著しく逸脱したものであつて、刑法三五条によつて違法性を阻却されるものではなく、その違法性の程度においても、可罰性のないほど軽微な行為と解することはできないと認定判示したのは、事実を誤認したものであり、この誤認は、判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。

そこで、調査するに、原判決挙示の関係各証拠によると、原判決が、(被告人・弁護人らの主張に対する判断)第二、第三で説示するところは、すべて是認することができるから、原判決には、所論主張の如き事実誤認はないといわなければならない。

論旨は、いずれも理由がない。

第六控訴趣意第二章第三の二 事実誤認、法令適用の誤りを主張する点について

所論は、要するに、原判示第二の二小林貞一に対する傷害の事実につき、1 被告人出淵は、小林を足蹴りしたり、同人の胸ぐらをつかまえたりしたことがないのに、原判決が信用性のない原審証人小林貞一、同三井久男、同井戸和弘、同小渋勝彦の各証言及び小渋勝彦作成の診療録を採用して、被告人出淵の小林貞一に対する暴行、及びこれによる左大腿打撲、四頭股筋筋断裂、前胸部擦過傷の傷害を認定したのは、事実を誤認したものであり、2 仮りに、右小林、三井、井戸の各証言が真実を述べたものとして信用できることを前提としても、これらによつて認め得る事実は、まず、被告人出淵の小林に対する暴行によつて前記傷害の結果を生じ、その後に、被告人三田が、被告人出淵との小林に対する暴行の共謀意思を生じたということであるから、被告人三田に対して、右傷害の結果について共犯の責任を負わしめることはできないというべきであるのに、被告人三田に、右傷害の刑責を負わせた原判決は、事実を誤認し、ひいて法令適用を誤つたものである、というのであつて、その理由を、おおよそ、以下のように主張する。

右1について

被告人出淵、同三田の暴行によつて傷害を負わされた旨証言する小林貞一は、もともと、全臨労を敵対視してきた会社の幹部であるうえ、小林自身も、全臨労の組合員を憎んでいた者であり、また、小林が被告人出淵、同三田を告訴したのは、両被告人を含む被告人五名の解雇を企図した会社の意向に迎合してなされたもので、傷害を負わされた事実を強弁する必要があつたのであるから、小林証言は信用性がないというべきである。また、小林の傷害を左大腿打撲、四頭股筋筋断裂及び前胸部擦過傷であると診断した医師小渋勝彦の診断方法は、単に小林の申述のみに基づいて診断したものであつて、なんら客観的な測定方法に基づいたものではないから、正確性に欠けるものといわなければならない。さらに、原審証人小渋勝彦は、「小林に対し、痛い方の足にはなるべく力をかけないようにしなさいと注意した筈です。仕事は、そんなに痛かつたんじやできないだろうと、私は思つておりましたから」と証言しているところ、小林は、傷害を負わされたという日の翌日から平常通り勤務していたのであるから、同人が小渋医師に診察を受けた際、同医師に訴えたことは、虚偽であつたことが明らかである。したがつて、この虚偽の訴のみに基づいて、診断を下したという小渋医師の前記診断結果は、誤りであるといわなければならない。なお、右診断で傷害とされた前胸部擦過傷は、小林自身、被害を受けた当日には気付かなかつたほどのものであるのに、同人が、これを翌日になつて、ことさら小渋医師に申述して治療を受けたのは、この傷をカルテに記載させることによつて証拠を残し、告訴、裁判のための資料にするという意図に基づいたものであること、また、右傷が存在したとすれば、証拠に残すため、当然写真撮影をしている筈であるのに(井戸の前胸部の傷害については、写真撮影を行つている。)、これをしていないのは、右傷害の不存在を推認させるものであること、などの事実を考えると、この傷が、被告人出淵の行為によつてつけられたものであるとする小林証言は、信用できないものといい得ることのほか、仮りに、右の傷があつたとしても、これは、右の如く、小林自身、医者のところに行つても気付かなかつた程度のものであり、小渋証言によつても、直径で五ミリ程度のものというのであるから、極めて軽度のものであつて、刑法で処罰する程度のものとはいえないから、これを原判決が傷害と認定したのは誤りである。

右2について

原判決が措信できるとした原審証人井戸和弘、同小林貞一の各証言によれば、被告人三田の小林に対する暴行の共謀成立時期は、被告人三田が、小林に対して暴行を加えたときと認められるから、原判決が、この点について、恰も、被告人三田、同中村、同富永、同武部の井戸に対する暴行の共謀成立時期と同時期であるかの如く認定したのは、事実を誤認したものであり、また、小林が受けたという前記傷害は、いずれも、被告人三田が小林に暴行を加える前に、被告人出淵の暴行によつて生じていたものであるから、原判決が、被告人三田に対して、傷害行為を認定し、その刑責を負わせたのは、事実を誤認し、ひいて法令適用を誤つたものといわざるを得ない。

以上のように主張する。

そこで、検討する。

原審証人小林貞一は、おおむね、以下のように証言する。

新聞輸送株式会社で総務部次長待遇の地位にある私は、昭和五四年三月一日午後五時過ぎころ、会社事務室にいると、遠藤労務担当取締役がやつてきて、そこにいた者に対し、「今、交通会館の『しろばら』で全臨労の諸君と話し合いをして戻つてきたところだが、一緒に行つた住吉、三井の両者がまだ戻つていないので、あるいは、つかまつているかもしれないから、様子を見に行つてほしい。」といつた。私は、木下総務部長から行くように指示されたので、同じく指示された井戸次長、繁在家、諸永、山崎と出かけることにしたが、井戸次長が早く出て、私と山崎が一、二分遅れて出たように思う。小走りで交通会館に向い、二階フロアーまで上ると、左の方に住吉と被告人出淵の姿を見た。また、三菱銀行出入口前に井戸次長と同人のまわりを取り囲んでいた被告人三田等四名、その後方に三井次長、繁在家、諸永がいたように思う。被告人出淵は、住吉の右斜め後方から同人の左腕をつかみ、同人を抱えるようにして自分の方に向つていた。住吉は、逃がれようとしたが、被告人出淵が離さなかつたので、住吉がどこかに連れて行かれるんぢやないかと直感し、同人等のもとに飛んで行つて、被告人出淵に対し、「離しなさい。」といつたが、同被告人が離さなかつたので、同被告人と住吉の肩に手をかけて、分けようとした。しかし、分けられなかつたので、私は、体重をかけて、両人の間に割つて入つた。それで、両名を離すことができた。すると、被告人出淵は、私に「お前なんでここにきたんだ。」といつた。私は、被告人出淵と住吉が離れたので、よかつたなあと思いながら、被告人出淵と向い合つて立つていると、同被告人から、いきなり左足の腿の付け根の内側あたりを蹴られたので、二、三歩よろめきながら後退した。しかし、被告人出淵は、私の胸ぐらとか肩とかをつかまえて、前後にゆすつたりしながら、私とともに、エスカレーターの方に移動し、この間、ネクタイを引張られたり、胸ぐらや襟元をつかまれたりした。私が逃げようとしたら、被告人三田が、応援にきて、「この野郎。」といいながら、被告人出淵につかまえられていた私の背後から、腕を私の頸部にまわして絞めたので、私は、息もできないようになつた。その直後、私は被告人三田に、首投げのような形で投げ飛ばされてエスカレーターの前まで行き、尻もちをついたような形で倒れた。起き上ろうとしても、仲々起き上れなかつた。なお、被告人出淵に蹴られたときは、全身に痛みが走つた。それで、私は、被告人出淵に、「どうして蹴飛ばすんだ。」といつたところ、同被告人が、「お前、ここに何しにきたんだ。」というので、私が、「会社の命令できた。」といつたら、同被告人は、私の襟元をネクタイごとつかんで前後にゆすつたり押したりしながら、前記のように移動し、この間、被告人出淵にも首を絞められたように思うが、その後被告人三田からも右のように暴行を加えられた。被告人三田に投げ飛ばされてから、ようやく、起き上つてみると、私の左前、右前約一メートル半位のところに、被告人出淵、同三田がそれぞれ立つており、その二メートル位左方に三井次長がいたが、会館の守衛がきたときは、被告人出淵、同三田及び三井次長はいなくなつていたので、私は自分一人で会社に戻つた。会社に戻つてから、同日午後六時前後ころ、井戸と一緒に交通会館内にある東京ニユーセンターの小渋先生に診てもらつたら、大腿打撲と筋をいためているという診断で、薬をぬつて包帯をしてもらい、飲み薬をもらつた。同夜、帰宅してから、肌着を脱いで、胸の辺りをみたら、一点がかきむしられたように赤いあざになつていたので、翌日、このことを小渋先生にいつて診てもらつたら、傷になつているから、治療するということで治療してもらつた。同月一二日まで通院して、以後通院しなかつたのは、小渋先生が、残つている薬をつけたり、飲んだりしていれば、自然になおるだろうから、もういいでしようといつたから。しかし、三月一二日の時点では、なお、多少の痛みは残つていた。なお、前記暴行を受けてから三日間位は、びつこを引いていた。小渋先生からもらつた診断書によると、私の病名は、左大腿打撲、四頭股筋筋断裂、前胸部擦過傷というものだつた。私は、本件についてすぐ告訴しようと思つていたが、会社には人がいませんでしたので、翌日、上司と相談して告訴しようとしたが、手続なんかがよくわからなかつたので、会社に一任した。会社が私の委任を受けて告訴したわけです。

以上のように証言するところ、右証言内容が、目撃者である原審証人井戸和弘、同三井久男の各証言とも大筋の点で符合しているうえ、傷害について述べた点についても、担当医師である原審証人小渋勝彦の証言及び同証人作成の診療録によつて客観的に裏付けられたものとなつているほか、小林証言には、格別、不合理、不自然な点が見当らないことにかんがみると、小林証言は、充分に信用できるものというべきであり、これに反する被告人等の原審における各供述は、措信できないということができる。

所論は、小渋医師の小林に対する診断方法が不正確であるうえ、内容虚偽と思われる小林の訴のみで診断した小渋医師の診断結果は措信できないと主張するのであるが、小渋証言によれば、小渋医師の小林に対する診断は、単に小林の訴を聴き、これのみに基づいて下されたものではなく、小林の訴えた患部を直接診たうえ、手でさわつてみるなど、医師として通常行うであろう診察方法を講じたうえ、その専門的知識と経験に基づいて診断を下したことが明らかであるのみならず、小林が小渋医師に訴えた内容が、虚偽であつたとする証跡もないのであるから、右所論は到底採用することができない。

また、所論は、小林の受けた傷のうち、前胸部擦過傷は、極めて軽度のもので、刑法で処罰される程度のものということはできないと主張する。たしかに、右の擦過傷は、直径が約五ミリ程度のものではあるが、これが、刑法にいう傷害にあたることは明白であるから、右の所論も採用できない。

そこで、(証拠略)を総合すると、以下の事実を認めることができる。

(一)  全臨労を代表する被告人三田、同出淵、同中村、同富永、同武部の五名は、昭和五四年三月一日午後三時一五分ころから、東京交通会館三階にある喫茶店「しろばら」において、新聞輸送株式会社を代表する同社労務担当取締役遠藤勲司及び同取締役補佐住吉晃、同社労務部次長三井久男と、前日夜、日臨労系の橋本秀昭等が、全臨労組合員の就労している芝浦営業所に参集した事態について、話し合いをし、遠藤から事情説明を受けたが、これに納得しなかたため、話が平行線を辿り、あらかじめ、約束されていた終了時間の午後五時ころになるや、遠藤が、話し合いを打ち切つて帰つてしまつたので、後に残つた三井や住吉に文句をいつたりしたが、同人等にも話を切り上げられて、「しろばら」を一緒に出ることになり、住吉には被告人出淵が、三井には他の被告人四名が、それぞれつきまとつて、交通会館三階から二階に通ずる階段を、被告人出淵と住吉が先になつて降りたとき、三井につきまとつていた被告人三田、同中村、同富永、同武部が、折から遠藤の指示を受けて、三井、住吉の様子を見るためめ、右会館二階廊下まで上つてきた会社の業務部次長井戸和弘の姿を見つけるや、口々に、「井戸だ。井戸だ。」、「いた、いた。」などといいながら、先行していた被告人出淵と住吉を追い越すようにして階段を駈け降り、井戸のところに駈け寄り、同人を取り囲んで、同人に対して、前述したとおりの暴行を加えるに及んだ。

(二)  被告人三田等四名が、井戸に対して暴行を加えていた間、井戸より若干遅れて右二階廊下まで上つてきた会社の総務部次長待遇小林貞一は、井戸や、同人を取り囲んでいる被告人三田等及びその付近にいた三井、繁在家、諸永の姿を見つけたほか、被告人出淵が、住吉の体を抱えるようにしてつかんでいるのを見て、被告人出淵のもとに駈け寄り、「やめなさい。」といつたが、やめなかつたので、被告人出淵と住吉の双方の肩に手をかけて、引き離そうとした。しかし、被告人出淵が離さなかつたので、小林が体重をかけて、被告人出淵と住吉の間に割つて入つたため、両者を引き離すことができたが、今度は、小林と被告人出淵が相対峙する形となつた。そのとき、被告人出淵が、やにわに、小林の左大腿部を一回足蹴りしたので、小林は、被告人出淵に対し、「どうして蹴とばしたんだ。」というと、同被告人が、「お前、ここに何しにきたんだ。」といい返したので、小林が、「会社の命令できた。」というや、被告人出淵が、小林の襟元をネクタイごとつかんで前後にゆすつたり、押したりしながら移動し、時にはネクタイを強く引張るなどの暴行を加えた。

(三)  そこで、小林が、被告人出淵から逃れようとしたが、同被告人につかまえられて逃げられないでいるうち、それまで、井戸に暴行を加えていた被告人三田が、被告人出淵に加勢すべく、小林に「この野郎」といいながら近寄り、同人の背後から腕を同人の首にまわして絞めつけ、この間、被告人出淵も、依然、小林の胸ぐら辺りをつかんだまま、押すなどの暴行を続けて呼応したのち、被告人三田が、小林を首投げのような恰好で投げ飛ばしたため、小林は、二階のエスカレーターの前付近までとばされて、同所床上に尻もちをつくような形で転倒した。

(四)  小林は、前記の暴行によつて、左大腿打撲、四頭股筋筋断裂、前胸部擦過傷の傷害を負つたが、このうち、左大腿打撲、四頭股筋筋断裂の傷害は、明らかに、被告人出淵の足蹴りによつて生じたものであり、右の前胸部擦過傷もまた、被告人三田が、小林に前記暴行を加えるまでの間に、被告人出淵の小林に対する前記暴行、すなわち、同人の襟元付近をつけんで前後にゆさぶつたり、押したりしたなどの暴行によつて生じたものである(これに反して、前胸部擦過傷が被告人三田の前記暴行によつて生じたとする証跡はない。)。

以上の事実を認めることができる。

右事実に徴すれば、被告人出淵の小林に対する前記暴行は、被告人出淵が住吉をつかまえていたところ、小林によつて引き離されたため、これに憤慨したことが動機となつたものであり、他方、被告人三田、同中村、同富永、同武部の井戸に対する前記暴行は、同被告人等が、たまたま、井戸の姿をみるや、前夜、同人が被告人三田と電話で話した際、同被告人から、「出るぞ。出るぞ。」といわれたのに対し、「それじやあ、出たきやあ、出なさいよ。」といつて電話を切つたことを思い出して、その態度を難詰し、報復しようとしたことが動機となつたもので、両者は、動機の形成時期、内容を異にするものであるということができるのである。また、被告人三田の本件犯行の際の行動は、同被告人が、まず、被告人中村、同富永、同武部とともに、井戸に対して、前記のような暴行を加えているうち、同じ二階廊下で、被告人出淵が小林をつかまえて前記暴行を加えているのを見て、被告人出淵に加勢しようとして、同被告人がつかまえていた小林のところに行つて、同人に前記のような暴行を加えたものであることが明らかである(被告人三田は、被告人出淵が小林に暴行を加えた当初の段階で、既に小林のいることを知つていて、被告人出淵に加勢しようと思つていたとする証拠は見当らない。)。したがつて、小林に対する暴行について、被告人出淵と同三田との間で共謀が成立した時期は、被告人三田が、小林に「この野郎」といいながら、近寄り、同人の頸部に腕をまわした前後のころと認めるべきであるから、それ以前に生じていたとみられる小林の前記傷害についてまで、被告人三田に罪責を認めることは、できないものといわざるを得ないのである。

してみると、被告人三田に対し、小林の前記傷害についてまで、被告人出淵との共謀による共同正犯の成立を認め、その罪責を肯定した原判決は、事実を誤認し、ひいて、法令適用を誤つたものといわなければならず、この誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかであるというべきである。したがつて、所論のうち、2の主張は、理由があるものというべきところ、原判決は、被告人三田について、右に事実誤認ありとした小林に対する傷害(原判示第二の二)と事実誤認の認められない井戸に対する傷害(原判示第二の一)とを併合罪として一個の刑で処断しているから、その全部について破棄すべきものとなるが、所論のうち、被告人出淵の小林に対する暴行を否定する1の主張は、採用することができない。

論旨のうち、被告人三田に関する部分は理由があるも、被告人出淵に関する部分は理由がない。

しかしながら、原判決中、被告人出淵に関する部分について、職権をもつて調査するに、原判決は、(認定事実)第二罪となる事実の二として、被告人出淵が、被告人三田と共謀のうえ、小林に対し、暴行を加えて前記傷害を負わせたと認定判示し、恰も、被告人出淵が、小林の左大腿部を足蹴りした時点で、既に被告人三田と共謀したかの如く判示したが、被告人出淵と同三田の小林に対する暴行の共謀は、前述したように、被告人三田が、被告人出淵において、小林に対し暴行を加えているのを見て、同被告人に加勢すべく、同被告人につかまえられている小林のところに近づき、同人の背後から、その頸部に腕をまわしたころの前後に成立し、かつ、小林が負つた傷害は、被告人三田の右行為以前に、被告人出淵の単独の暴行によつて生じたものと認められるので、原判決の被告人出淵に関する右認定も、事実を誤認したものといわざるを得ず、この誤認は、判決に影響することが明らかであるから、原判決中、被告人出淵に関する部分もまた、破棄を免れないものといわなければならない。

第七原判決中、被告人三田、同出淵に関する部分の破棄と自判について

前述したように、原判決中、被告人三田、同出淵に関する部分は、破棄を免れないので、両被告人に関するその余の控訴趣意に対する判断を省略して、刑訴法三九七条一項、三八〇条、三八二条により、原判決中、被告人三田、同出淵に関する部分を破棄したうえ、同法四〇〇条但書により自判する。(被告人出淵の認定事実は、起訴事実と若干異なるけれども、訴因変更を必要とするとは認められない。)

(認定事実)

一  本件犯行に至るまでの経緯

原判決が(認定事実)の第一本件犯行に至る経緯と題して説示するところと同一であるから、これを引用する。

二  罪となるべき事実

(一) 被告人三田義樹は、被告人中村和彦、同富永茂及び同武部年男と共謀のうえ、昭和五四年三月一日午後五時一五分ころ、千代田区有楽町二丁目一〇番一号所在の東京交通会館二階廊下において、井戸和弘(当時五〇歳)に対し、「昨日電話で何といつた。」、「出てこいといつたろう。」などと怒号しながら、こもごも同人の作業衣の襟元、胸ぐら、ネクタイ等をつかんで前後にゆさぶり、右腕を頸部に巻きつけて絞めるなどの暴行を加え、よつて、同人に全治まで二〇日間を要する前胸部打撲及び挫創の傷害を負わせ

(二) 被告人出淵裕明は、前同日時ころ、前同所において、小林貞一(当時五三歳)に対し、その左大腿部を一回足蹴りしたうえ、「お前、何でここにきたんだ」などと怒号しながら、同人の胸ぐら、ネクタイなどをつかんで前後にゆさぶるなどの暴行を加えて、同人に対し、左大腿打撲、四頭股筋筋断裂及び前胸部擦過傷の傷害を負わせ、さらに引続いて、被告人出淵、同三田は、共謀のうえ、右小林に対し、被告人三田において、小林の背後から、その頸部に腕をまわして絞めつけ、同人を投げ飛ばして床上に転倒させるなどの暴行を加え

たものである。

三  証拠の標目(略)

四  被告人、弁護人等の正当行為乃至可罰的違法性欠缺の主張に対する判断

原判決が、(被告人・弁護人らの主張に対する判断)の第二、第三で詳細に説示するところと同一であるから、これを引用する。

五  確定裁判

被告人三田は、昭和五四年七月一六日、東京地方裁判所において、建造物侵入罪により懲役六月、執行猶予二年に処せられ、右裁判は、昭和五五年五月二二日確定したものであつて、この事実は、右事件の判決謄本二通及び検察事務官作成の裁判確定証明書によつて認められる。

六  法令の適用

被告人三田の前記二の(一)の所為は、刑法六〇条、二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号に、前記二の(二)の所為は、刑法六〇条、二〇八条、罰金等臨時措置法三条一項一号に、それぞれ該当するので、所定刑中、いずれも懲役刑を選択するが、右の各罪は、前記五の確定裁判を経た罪と刑法四五条後段の併合罪の関係にあるから、同法五〇条により、いまだ裁判を経ていない右各罪について、さらに処断することとし、以上は、同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、但書、一〇条により、重い前記二の(一)の罪の刑に法定加重した刑期範囲内で同被告人を処断することとし、被告人出淵の前記二の(二)の所為中、前段の単独傷害の点は、刑法二〇四条、後段の共謀による暴行の点は、同法六〇条、二〇八条、のほか、いずれについても罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するところ、右は、包括して傷害の一罪として処断すべきものであるので、所定刑中、懲役刑を選択し、その所定刑期範囲内で処断することになるが、次に(量刑の事情)として述べる情状を総合して、被告人三田を懲役八月に、被告人出淵を懲役六月に、それぞれ処したうえ、刑法二五条一項を適用して、本裁判確定の日から、被告人三田に対しては五年間、被告人出淵に対しては、三年間、右各刑の執行を猶予し、刑訴法一八一条一項但書により、原審における訴訟費用の全部を被告人両名に負担させないこととする。

(量刑の事情)

本件は、さきに詳述したとおり、本件犯行当日の前夜、全臨労組合員の就労先である芝浦営業所に、同労組と対立関係にあり、しかも、会社から右営業所への立入りを禁止されていた日臨労系の橋本秀昭等が押しかけてきたので、不測の事態発生を危惧した会社側が、当夜就労を予定していた全臨労組合員に、賃金補償を条件として、出勤を控えさせる措置をとつたため、全臨労幹部である被告人五名が、翌三月一日午後三時一五分ころから、会社側の遠藤労務担当取締役、三井労務部次長、住吉労務担当補佐の三名と、東京交通会館三階にある喫茶店「しろばら」で、事情説明を聞くための話し合いをしたが、あらかじめ終了時間として約束のあつた同日午後五時ころ、遠藤から話し合いの打ち切りを宣言されて、同人に帰社されてしまつたため、あとに残つた三井、住吉に文句をいつたりしたが、間もなく、同人等からも話を切り上げられたので、同人等と一緒に右「しろばら」を出て、三階から二階に通ずる階段を同人等につきまといながら降りていつた際、二階廊下に、上司の指示で三井、住吉を迎えにきた井戸業務部次長の姿を見つけて、同人に対し、被告人三田、同中村、同富永、同武部が前記二の(一)の暴行を加えて傷害を負わせ、他方、井戸より若干遅れて二階廊下に上つてきた小林総務部次長待遇に対して、まず、被告人出淵が、前記二の(二)の暴行を加えて傷害を負わせたあと、被告人三田が被告人出淵に加勢してなおも暴行を加えた、という事案である。ところで、右「しろばら」における話し合いで、事情説明にあたつた会社側の態度には、これを不誠実であると非難すべき点はうかがわれないこと、本件の各被害者は、会社の幹部ではあるが、従前行われてきた団体交渉の相手方でないのはもちろん、右「しろばら」における話し合いの相手方でもなく、単に、「しろばら」に残つた三井、住吉の両名を、上司の指示で迎えにきた者であること、したがつて、本件犯行の直接的な動機は、被害者井戸の場合にあつては、同人が本件犯行当日の前夜、被告人三田と電話で話を交わした際、同被告人に対し、出たければ出なさいよといつて電話を切つたことについて、被告人等が憤慨していたことに根ざすものであり、また、被害者小林の場合にあつては、住吉をつかまえていた被告人出淵が、これをやめさせようとした小林によつて、住吉から引き離されたために、小林に対して憤激したことによるものであること、また、本件の犯行場所は、東京交通会館二階廊下という一般公衆の通行する人目の多いところであるのに、被告人等は、これをはばかることなく、本件各犯行に及んだものであること、そして、本件各犯行の態様は、前記のとおり、かなり執ようであり、その結果もまた、必ずしも軽微なものということはできないこと、などの事情を考慮すれば、本件は、労働組合活動の面からみても、その限度をはかるに逸脱した悪質な犯行であるといわなければならない。加えて、被告人三田には、(1) 昭和五三年九月二七日、建造物侵入、威力業務妨害罪(昭和五一年三月三〇日発生のいわゆる朝日新聞芝浦印刷総局事件)により罰金一〇万円に、(2)昭和五四年七月一六日、建造物侵入罪(昭和五一年一一月二七日発生のいわゆる新聞輸送株式会社侵入事件)により懲役六月、執行猶予二年(昭和五五年五月二二日確定)に、各処せられた前科があるほか、(3) 昭和五六年三月一一日、兇器準備集合、公務執行妨害罪(昭和四六年三月六日発生のいわゆる成田闘争事件)により懲役一年二月、執行猶予三年の言渡しを受けた(現在、被告人三田において控訴中)裁判歴があり、本件各犯行は、右(2)及び(3)の罪の公判係属中に敢行されたものであること、また、被告人出淵には、右(1)の日に、同記載の罪により罰金一〇万円に処せられた前科があること、及び、被告人三田、同出淵には、反省の情がうかがえないこと、などの事情を併せ勘案すると、被告人両名の刑責は、軽視できないものがあるといわなければならない。

しかし、本件各犯行は、右にみた如く、いわば偶発的な犯行であつて、計画的なものでなかつたこと、被害者井戸の場合は、同人が、被告人等から、「夕べ、出ろといつたろう。」などと詰問されるや、反射的に、「そんなことはいつていない。」と嘘をいい、この一言が、被告人三田や、同中村、同富永、同武部の井戸に対する憤激の情を、さらにかきたてて、被告人等による執ような暴行を招く契機になつたことがうかがわれること、などの事情の存することも見逃せないところである。

また、さきに詳述したように、被告人三田の場合は、被告人中村、同富永、同武部との共謀による被害者井戸に対する犯行が主たるもので、他に、被害者小林に対する暴行があるといつても、それは、単なる暴行にとどまり、同人の受けた傷害の原因をなしたものではなく、他方、被告人出淵の場合は、主として、被害者小林の受けた傷害の原因となつた暴行を単独で行ない、さらに引き続いて、同人に対し、被告人三田との共謀による暴行を加えたというものであるから、犯情自体に関しては、被告人三田と同出淵の間に、それほど重大な差異があるとまではいい難いところというべきである。

以上、諸般の情状を総合すると、被告人出淵に対しては、原判決の量刑どおり(これについては、検察官からの量刑不当を理由とする控訴はない。)、同被告人を懲役六月、執行猶予三年に処するのを相当というべく、被告人三田に対しては、同被告人の前記前科、裁判歴を考慮にいれても、被告人出淵に対する右量刑との対比において、被告人三田を懲役八月、執行猶予五年に処するのを相当というべきである。

第八控訴趣意第五章 被告人中村、同富永、同武部に関する量刑不当を主張する点について

所論は、要するに、被告人中村、同富永、同武部を各懲役六月、執行猶予三年に処した原判決の量刑は、不当に重いというのである。

そこで、調査するに、被告人中村、同富永、同武部は、原判示第二の一の井戸に対する傷害の事案に関与した者であるところ、右犯行は、さきに、被告人三田、同出淵について自判した際、その量刑の事情として説示したとおり、犯行に至るまでの経緯、犯行の動機、態様、結果等に徴して、悪質であるといわなければならないことに加えて、被告人中村には、被告人三田の前科(1)の罪と同一の建造物侵入、威力業務妨害罪により罰金一〇万円に処せられた前科があるほか、被告人中村、同富永、同武部には、いずれも反省の態度がうかがわれないことなどの点を併せ考慮すると、各被告人の刑責は、軽視できないといわなければならない。

しかしながら、本件には、本件犯行が偶発的な犯行で、計画的なものでなかつたこと、及び、被害者井戸の側にも、被告人等に対して嘘をついて、被告人等の憤激の情を一層かきたてて、その執ような犯行を招く契機を作つたという落度があつたことなどの事情も認められるのである。

そこで、以上の情状のほか、本件にあらわれた一切の情状を総合すると、被告人中村、同富永、同武部を、それぞれ、懲役六月、執行猶予三年に処した原判決の量刑は、やむを得ないところであつて、不当に重いということはできない。

論旨は、理由がない。

よつて、刑訴法三九六条により、被告人中村、同富永、同武部の本件各控訴を棄却することとする。

第九結語

以上の次第で、原判決中、被告人三田、同出淵に関する部分を破棄したうえ、被告人三田を懲役八月、執行猶予五年に、被告人出淵を懲役六月、執行猶予三年に、それぞれ処し、被告人中村、同富永、同武部の本件各控訴を棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判官 船田三雄 櫛淵理 門馬良夫)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例